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▲少数民族と荘園建築
少数民族リーヴ人ラトヴィアの荘園建築


ラトヴィアの荘園建築

 ラトビア共和国には、歴史・文化的記念物となっている荘園が各地区に少なくても一つある。タルシ地区にも幾つかあり、その一つはヴァンゼネ村にある居住用建物と公園からなるノガレス荘園である。フィルックス男爵が所有し、狩猟城として使用したネオルネッサンススタイルの建物である。天井の飾り、暖炉のストーブは保存されている。
 荘園は貴族の家屋敷であった。16世紀に始まったラトビアの荘園は、土地がかなり広いのが特徴であった。1920年にはラトビアの領地の48%が荘園であった。貴族は領地の中で裁判力を持った国の代表であった。居住建物は要塞化された城ではなく、荘園主や貴族たちの農場と考えられた。ラトビアでの荘園の居住建物は、17世紀の西ヨーロッパの田舎における貴族農場の模倣であった。この時代には、荘園主たちはまだ要塞を備えていた。中庭の周りに居住用と家族用の建物が四角形に形造られ、のぞき穴のある壁でつながっていた。
 18世紀、荘園建築はバロックスタイルが主流であった。四角の建物の縁に突出部が加えられ、小さい細かい所(ドアの金属部分や切妻の窓等)は典型的なバロックスタイルであった。多くの荘園建築は1750年から栄え、1800年に絶頂をきわめた(古典主義)。
 1850年頃には、ラトビアや西ヨーロッパでの系統的な建築スタイルの発展は止まり、従来の本質や考え方を無視した折衷的なものにとって変わった。ゴシック建築は、特に荘園建築に人気があった。ぎざぎざのついた三角形の切妻の屋根や、銘文の付いた塔などロマンスタイルで飾られた一連の建物である。1918年のラトビア国宣言後に、荘園の建物は地方機関とか公共組織の手に渡り、学校やレクリエーション施設として使われている。



カズダンガ

 ガズダンガは美しい景色、文化的、歴史的遺産で知られている。
 カズダンガ宮殿の建設は、1800年に始まった。庭のファサードに沿ってのコリント式の柱は、地方に住んでいる人の手仕事である。古典スタイルで造られた宮殿は、第1次世界大戦で壊滅的ダメージを受け、1925年から1927年にかけて修復された。石の橋が1840年に峡谷に架けられた。
 ラトビア最大の樹木公園はカズダンガにある。173ヘクタールの面積と建物、300種の木とやぶ(127は外国種)があり、整備は18世紀から19世紀のかわり目の頃に始まった。野外彫刻展示場では、古代ギリシャの神デメトラが持っている砂岩の壷(1850年から)が見られる。1873年に最初の貯水池が造られた。幾つかの農業学校も開かれた。女の子と男の子が同じ池で泳ぐことが禁じられ、それぞれ「女子の池」と「男子の池」と名が付けられた。カズダンガ宮殿は、今は農業学校である。



ウングルムイジャ荘園

 ウングルムイジュア荘園の名前は、最初の所有者ウンゲルンからきている。住宅は1751年から1752年にかけて完成し、バロックスタイルで建てられた。平屋でマンサード屋根があり、中央部分は屋根構成で強調されている。ファサードは、壁柱、窓わく、屋根、棚、コーナー製品、鉄製品で飾られている。18世紀からの壁絵とタイルストーブがある。茶屋、管理人の家、倉庫、家族の家、公園、これら全てが荘園の一式である。